「……しまった」

静かだった室内に、急き立てるように鳴り響いた機械音。
ベッドサイドに置かれた少し背丈のあるチェストの上で、黒いボディの携帯電話が、その無駄の無いフォルムとは似合わず大きな音を響かせて鳴っていた。

普段であれば室内に入る前にマナーモードに切り替えるか、状況によっては電源をオフにしているのだが、今日は忘れていたらしい。
ジャケットから取り出したまま、チェストの上で放置し続けた携帯電話は、今頃になってその存在を訴えるように、けたたましい音を室内に鳴り響かせた。しかし何故、今回に限って電源を切ることも、マナーモードに切り替えることも忘れてしまったのか。それを思い出そうと、この部屋に入って来た時の状況に考えを巡らせたスコールは、思い当たる記憶の節まで辿り着き、一人納得したように天井を見上げて小さく息を洩らした。

見上げていた天井から左横のサイドボードに視線を移したスコールは、なるべく振動が起きないように注意を払って、
―――特に左腕は、その場からずれたり動いたりしないよう気を使いながら、肘にだけ力を入れ上半身を浮かして起こす。
微妙な体勢で身体を起こそうとしているせいなのか、脇腹の辺りには次第に攣るような痛みがじわじわと襲い始めたが、常に身体を鍛えているスコールにとっては決して耐えられない程の痛みではなく、構わず身体を起こすことだけに意識を傾けた。
チェストの上で、けたたましい音を響かせている物を、一刻でも早く手に取って静めなければならない。
そう気持ちが先立つのに加え、固定されているように動かすことの出来ない左腕。脇腹に感じた痛みなど二の次になっていた。

なんとか体勢を整えたスコールは、今度は肘に重心を預けて横を向き、自由の効く右腕をベッドサイドのチェストへそっと伸ばすと、その上でいつまでもうるさく呼び続けている携帯電話を手探りで探した。

普段であれば、何もこんな苦労をせずとも、すぐに掴むことが出来ただろう。
しかし今ばかりは……状況が違った。


間違えても寝起きで身体を動かすのが煩わしかったわけではない。確かに先程までは心地よい眠りの中に居たのだが、だからと言って体に気だるさが残っているわけではなかった。ならば室内が暗いのかと言えば、それも違う。目を覚ました時に、煌々と灯ったままであった蛍光灯の光に、スコールは僅かながら瞳の奥に痛みさえ覚えたほどだった。

煩わしいわけでも周囲を見渡せない状況でもない。

動けないのだ。

腕を伸ばし、いまだ鳴り止まない携帯電話を探しているスコールの耳元のすぐ下では、静かなリズムを刻んだ寝息が聞こえてくる。時折、胸元と肩のあたりをくすぐるように掛かる小さな呼吸は、一刻も早く携帯電話の音を止めなければと急くスコールの気持ちを、まるで乱すかのように吹き掛かる。故意的に行っているのではないかと思えるほどに、甘い囁きのような呼吸。
探し物をする手を一時的に休めたスコールは、顔だけを下に向けると、身体を動かす事の出来ない理由でもある自分の左腕と、そこにある存在に目を移した。
スコールの左腕。
彼の腕は今、自分以外の者のためにその役割を果たしている。
誰のためかと言えば、腕を枕代わりにして眠っている――――リノアのためだった。



チェストの上を軽く叩くようにして手首を上下させていると、何度目かにしてやっと、指の先が目的の物へ触れた。
その間も呼び出しを続ける煩い機械音は鳴り止むことはない。
手繰るように指先を動かしてスコールは携帯電話を手元まで引き寄せる。指先に触れる機会特有の冷たい感触は引き寄せる度に徐々に大きく近くなり、同時に音も先程に増して強く鳴っているように感じられたが、それは気のせいだったのかもしれない。
掌の半分ほどまで目的の物を引き寄せる事ができると、あとは腕を伸ばして一気にそれを掴み取り、掌の中にすっぽりと納まった折り畳み式になっている携帯電話の液晶画面を開いた。
パチっと小気味良い音を鳴らして開いた画面に目を遣り、そしてスコールは深い息を吐き出す。
それは楽な体勢に戻ることで、抜け出るように洩れた溜息でもあり、また別の意味も含まれていた。
スコールが目を向けている液晶の中には”CALLING”という文字と共に、シュウの名前と着信番号が浮かび上がっている。訊かずともその内容に大体の察しはついていた。

「スコール…………電話?…出ていいよ……お仕事でしょ?」

開いた液晶画面の下から眠たそうな間延びした声がして、スコールは手にしていた携帯電話を少しだけずらすと声の主を見つめた。スコールの腕の中で、先程まで彼に寄り添うようにして眠っていたリノアは、いつ目を覚ましたのだろう。
スコールをそっと覗き込み、微笑んでいるとも蛍光灯の眩しさに目を細めているとも取れるような表情を浮かべながら、そう言った。

「悪い、起こしたな……」
「ううん、それよりも電話……ほら、早く出ないと切れちゃうよ?」

首を傾げてスコールを見つめ、リノアは携帯電話を指差す。だが、スコールは何も返さず黙ったままでリノアを見つめた。もし、この電話に出てしまえば、こうやって二人の時間を過ごせなくなってしまう。それを……リノア自身も知っているのだと、スコールにはわかっていたから。
……だからこうやって躊躇ってしまうのだが、SeeDであるスコールが私情で任務を拒否することなど決してできない。そしていつもその矛盾に歯痒さを覚えてしまうのだ。

リノアは示していた指をそっと下ろすと、身体を横に向けてスコールの胸元へ頬を寄せるように添わせて瞼を閉じてしまう。けれどその仕草はスコールの視線から逃れようとするのでもなく、悲しみをじっと耐えているのとも違っていた。まるで何かに耳を澄ますかのようにリノアはそっと頬を寄せると、静かに瞼を閉じてしまう。
リノアの様子を不思議に思ったスコールは、何か声を掛けようとするのだが、喉元まで出掛かった言葉は、口にしようとした瞬間に呆気なく消えてしまった。
何を言うべきか検討もつかなかった。例え言えたところで、この状況を変えることなど決して出来ないのだと、気休めすら言えない自分自身に腹立たしくなり、悔しさに叫び出したくなる感情が黒い闇となって渦巻いていた。それでもやはり、スコールの唇からは込み上げた思いが言葉となって紡がれることは無かった。
仕方なくリノアから目を逸らしたスコールは、もう一度携帯電話の画面を見つめ、そこに配列されたボタンの一つを押す。

「…………遅くなった、すまない」

通話ボタンを押して機械に耳をあてると、電話越しの相手――――シュウは、第一声に「いつまで待たせるつもりだ!」と声を荒げた。
だが、すぐさま彼女らしい冷静な口ぶりに戻ると、何事も無かったかのように用件を伝え始める。

たった今ガーデンに入った依頼は、緊急を要する内容であるらしく一時間以内にガーデンを出発しなければならないと、シュウはそう伝えた。
珍しいことではない。魔女との戦いが終わった今でも世界は乱れて混沌としている。終わらない戦争に、沈静化しない暴動。人々の嘆き、苦しみ、怒り。
武器を手にする者を一人でも多く求めている世の中で、SeeDなど都合の良い駒の一つでしかないのだから。当然、依頼要求が止まる事も無い。けれど、その度に感じなければならない喪失感や焦燥感は、いったいどうやって拭い去れと言うのだろう。

スコールは依頼の内容を簡単でいいから教えてほしいとシュウに尋ねる。
伝えられたある程度の話から状況を判断し終えたスコールは、「すぐに向かう」とだけを伝えてそのまま通信を切った。その間、リノアは片腕をスコールの背にそっとまわすと一度だけ強く力を込めるように身体を寄り添わせたのだが、その瞳は、やはり閉ざされたままだった。

「リノア……」
「私ね……」

通話を切ったスコールが、リノアに呼び掛けようとした時、リノアも同じように言葉を発した。二人の声は重なるように交じり合って室内に響き、口にしかけた言葉を、お互いに飲み込んでしまう妙な空気感がそこには残った。スコールは一度開きかけた口を閉じると、じっと黙ってリノアの言葉を待ち、彼女の薄く伏せられたままの瞳を見つめる。
今は、自分の言葉を紡ぐよりもリノアの言葉を聞きたいと、そう思った。だからスコールは黙って耳を傾け、リノアの言葉を促すようにその時を待った。
リノアは伏せていた瞳をゆっくりと開く。
顔だけを向けてスコールを見つめると、まるでスコールの意思に応えるよう優しく微笑み、唇を薄っすらと開きはじめた。

「私ね、こうやってスコールにくっついてるの、大好きなんだ」

微笑んだリノアは、歌うように言葉を続ける。

「こうして傍に居て、頬や体をくっつけてるでしょ?そうするとスコールの心臓の音とか話声が、自分の体に響くみたいに聞こえてくるの。私ね、それがすごく好きなんだ……なんて言うのかな、傍に居る……っていうのかな……とっても安心する」

いつだったか、リノアは同じ言葉を口にした事があった。
あれはまだ、二人が今のような関係になる前の頃。共に世界を旅し、たった二人きりで宇宙に残されてしまった、あの時に。

「ラグナロク……あの時もリノアは同じ事を言っていたな、俺が安心をくれる人だって……」
「あ、スコール覚えていてくれたんだ!」
目を輝かせて問うリノアにスコールが頷いて応えると、その瞳は先程にも増して輝きが深まった。
「うん、そう……スコールは私に安心をくれる人だよ?それから相変わらず、がっかりも腹立ったりも、ジリジリさせられる人でもあるけどねっ」

そう言って、悪戯っぽく笑ったリノアの脇腹にスコールが手を伸ばしてくすぐるように触れると、リノアは声にだして大きく笑い、身を捩りながら「ごめんなさい!うそだよ!」と繰り返す。
笑った時に薄っすらと目尻の端に浮かんだ涙を拭ったリノアは、スコールの頬に手を伸ばすと、包み込むように触れてブルーグレーの瞳をじっと見つめた。

「ねえスコール。スコールはあの時に、安らぎやぬくもりが恐いって言ってたけど……今もそう?こうやってくっついてるのはやっぱり嫌い?……安心しないかな?」

瞳を見つめたままのリノアに、スコールは首を横に振って否定した。

確かに安らぎや温もりは恐かった。それは失うものでしかなく、幼い頃から恐怖という存在でしかなかったから。
だから要らないと自ら背を向け、他人との距離を置いた。
けれど今、求めてならない愛しい笑顔や、腕を伸ばして包み込んだ時の感触、掌に触れる心地よい温かさや存在……

この腕に包み込みたいと願う今は確かに――――――――安心という感情だった。



「きっと、人が安心を覚える瞬間は、大切な人が傍に居るって感じた時だって……私は思うんだ」

頬に触れていた手を下ろして胸元のシーツを手繰り寄せたリノアは、上半身をそっと起こして、スコールと向き合った。
黒曜石の瞳は優しく静かに見つめている。吸い込まれてしまいそうだと、スコールは思った。

「でも……人って欲張りだから。一番近くにあるものほど見失いがちになると思うの。本当は物凄く大切だったはずの事も、当たり前になり過ぎるくらい近くにあると、見えなくなっちゃうと思う。だから」
「だからリノアは、離れている方がいいって言うのか」

違う、リノアはそんなことを伝えようとしているのではない。それはスコールにもわかっていた。
それなのに口を衝いて出る言葉は……どうして大切な時ほど素直になりきれないものなのだろうか。

ベッドに無造作に投げ出していた右の拳に自然と力を込めてスコールが握ると、その上にリノアは自分の手を重ねて首を振る。

「ううん。私だってスコールと一緒だよ?本当は一日も……一時間だって離れたくなんてない。だけど、どうしても傍に居られない時。お互いが近くに居てあげられない時に、離れているからこそ気付ける大切さがあるって思えたら……きっと、寂しくなくなると思う。お互いを大切に想って、もっと好きで居られると思うの。だから」

言い掛けた言葉をそのままに、苦しそう顔を歪めて唇を噛んだリノアは、顔を上げるなりスコールの首に両腕を巻きつけて勢いよく体を寄せると、まわした腕に少しだけ力を込めて抱きしめた。

「だからスコール、大丈夫だよ?私達は一人じゃない。いつでもすぐに掴むことのできる安心が……ここにはあるんだから。たとえ離れていたとしても、私は消えちゃったわけじゃない。その時に傍に居られなくても、あなたが戻った時には、またこうやって抱きしめてあげるから、だからそんな顔しないで……」

動かない指に力を入れ、重い腕を持ち上げたスコールは、リノアの背中に指を這わせた。
華奢なリノアの体。力を入れれば、直ぐにでも折れてしまいそうに細く弱々しい。
彼女が背負う重すぎる運命は、間違えなく彼女の心に不安という重圧を与えている筈なのに……。それなのにリノアは笑顔を絶やさない。弱音も吐かずに自分の運命を受け入れている。その心が折れてしまうことなど、絶対に無い。
誰よりも強い――――
他の誰よりも……自分よりもずっとリノアは強いのだと、スコールは感じていた。

彼女の肩に額をあて、スコールは腕をしっかりとまわす。
密着した体はお互いの温度を伝える。体温だけではなく、生きる音色や動きまで。まるで互いを共鳴させ合うように響かせて伝える。
小さく肩を揺らしたリノアは、「二人の人間が居るはずなのに、まるで一つの生き物のようだ」と笑った。

「スコールって本当に寂しがりやだね」

幾らかの間、そうやってお互いを感じ合っていると、不意にスコールの頭を撫でたリノアが笑いながら言った。
顔を上げたスコールがリノアへ目を向けると、見つめられたリノアは水を得た魚のように生き生きと瞳を輝かせ、何処か自信とも似た得意げな表情を浮かべてスコールを見つめていた。スコールの顔はみるみると複雑なものへと変化する。輝いた表情を浮かべるリノアとは対照的に、その眉根には相変わらずの深い皺さえ刻まれていたが、リノアが気にする様子は全く無い。

「誰が寂しがりやだ。……それに俺は、一日も一時間も離れたくないだなんて……今までそんな言葉、一言も言った覚えは無い」
「また〜、本当に素直じゃないんだから。スコールが言葉で伝えてくれなくたって、リノアちゃんにはちゃ〜んとわかるんですからね!」

胸に手をあてて「お見通しだよ!」と付け加えたリノアが、撫でるようにスコールの髪へ触れると、その心地よさにスコールは少しだけ瞼を閉じた。
幼い子供のようで、決して好い気はしなかったけれど……それでも、今はこうやってお互いが触れ合うことがスコールには心地よかった。
どちらも口にしようとはしないが、こうしていられる時間もあと少しだと、二人は知っている。数分も経てば二人はまた離れなければならない。次に会えるのは何時の日だろうか……。

けれど、ほんの少しお互いの心が軽く感じられるのは、

安心という温もりはすぐ傍にあるのだと……知ることが出来たからなのかもしれない。



だけど――――。


「リノア、やっぱり俺は欲張りでもいいと思ってるんだ……」

欲張りでもいい。
欲張りでもいいから、いつまでもこうやって傍にいたい。どれだけ近くに居ようとも、リノアを見失うなんて絶対に無いと言いきれるから。
だから傍に居たい。

スコールは願い、そしてそんな自分に少しだけ呆れて笑った。

リノアも小さく笑う。
スコールの耳元をかすめるようにして頬を寄せながら。
何も口にはしなかったが、笑ったリノアの瞳は、『スコールって本当に寂しがりやだね』とからかい、『何でもお見通しなんだから』と得意げに目を輝かせて。

そして、『私も同じだよ』と言っていたかもしれない。




今、二人は離れなければならない。
だから、またこの部屋に戻った時には、必ず強く抱きしめ合おうと誓った。

離れていた二人の距離を埋めるように。心の穴を埋めるように。

乾いた心に、安心という水で潤すように。

2008/2/19 UP