想いの欠片






湿り気を帯びていない澄んだ空気が、降り注ぐ太陽の熱に暖められ心地よくガーデンの中庭を包んでいた。
眩しく大地を照らしていた陽光もここ数日の間にいくらか弱り始め、そよぐ風からは秋の訪れを僅かに感じられた。吹き抜けた風は凛とした冷たさを帯びて頬を撫でるが、それでも肌寒く感じるまでに至っていないのは、頭上で愛敬を振りまく太陽と、温暖なバラムの気候のおかげかもしれない。


手にしていた本に滑らせた指先で、紙の感触を確かめながらページを捲り、リノアは腰を掛けたまま背後の樹木に重心を預けて顔を上げた。見上げた先に見えるのは、大きく広がる枝葉。その隙間を縫って差し込む光と、微かに覗く青空。

身体を預けている樹木はガーデンの中でも特に大きなもので、枝に茂る葉が空を覆い隠すほどに広がっている。
けれど暗さを全く感じさせないのは、葉の隙間からほんのりと差し込んでいる光がスポットの効果をもたらして大地を明るく照らしている事と、太陽の光を受ける葉が葉脈を透かせる程に淡い輝きを放っているためかもしれない。
風に揺れる枝や葉は、まるで小さな笑い声を上げるように擦れ合う音を鳴らし、午後の穏やかな一時を楽しんでいる。

ここは美しい場所だった。


リノアは風に吹かれて顔に掛かってしまった髪を片手で押さえると、向けていた視線を揺れる枝葉から手元の本へ移す。けれど目を向けたページの上には、眩しい光を長く見つめ過ぎたせいなのか、薄い残像がぽっかりと浮かんでしまい、文字を読み取る事が出来そうになかった。
仕方なく吐き出した短い溜息と共に読むのを諦めた本を芝生の上に置き、少しの間だけ目を休めようとそっと瞼を閉じてみる。降り注ぐ陽光と温かい空気は心地よく身体を包み、そのままゆるやかな眠気に誘われてしまいそうだった。
先程から薄っすらと眠気を感じていた。けれど、ここで眠ってしまっては風邪をひいてしまうかもしれないと意識を保っていた。いくらバラムの気候がまだ温かいと言っても、季節の上では夏はもう終わりを迎えている。着ている服もノースリーブの物であったし、それに普段から愛用しているストールも生憎、部屋に置き忘れてしまった。
今ここで眠ってしまったら数時間後には確実に風邪をひいてしまう。そう頭では理解しているのに、体の方は言う事を聞いてくれないらしい。

撫でる風は冷たさを帯びて通り抜ける。まるで薄れようとする意識に向かって『眠るな』と語りかけるようだった。けれど気付いているのだろうか、その涼しさが逆に心地よさを与えていることを。風は凛と冷たいくせに優しさを持って包み込む。それはリノアが知っている安心感とも何処か似ている気がした。


不器用で冷たく接する事しかできない。けれどその奥には包み込むような強さと温かさを持っている……


――――今頃どうしているのだろう。


目を閉じたまま大切な人の顔を思い浮かべてみると、瞼の裏にはガーデンを発つ前に見せた……彼にしては珍しい微笑みが映った。
ガーデンを発つ前、名残惜しそうにいつまでも頬を撫でていた彼に、今回は長い任務になるかもしれないと、そう告げられた。昔と比べると近頃は離れて過ごさなければならない状況にも幾らか慣れることが出来ていた。だから笑顔で頷く事が出来たけれど、それは仕方ないと割り切れるようになっただけであって決して寂しさが消えた訳ではない。いつだって募る恋しさに押し潰されてしまいそうだった。
既にあの日から何ヶ月目かが過ぎ去ろうとしているが、一度も顔を合わせない状態が続いている。顔を合わす所か、声すらも聞いていない。
会って触れたい、抱きしめて欲しい。怪我はしていないだろうか、無事に戻って来られるのだろうか……。
彼を想うだけでこんなにも気持ちが揺れ動いてしまう。閉じていても瞳からは今にも涙が零れそうになり、どうしようもない哀しみと不安が心に影を広げ、奥底に眠る闇に全てが覆われてしまいそうになる。

それでも……

闇に引き込まれそうになる心を引き上げ、光へと導いてくれるのも、彼唯一人だった。
リノアの手を引いて光溢れる場所へ導いてくれるように……いつだって自分を救ってくれるのは彼だけだった。



「こんな所で寝てると風邪をひくぞ」



突然耳に届いた馴染み深い声。リノアは閉じていた瞼を慌てて開くと真っ直ぐ前を見つめた。
あまりの驚きに大きく見開かれた瞳は一点を見つめたまま止まってしまい、リノアは何かの言葉を掛けることも出来ずにただひたすら声の主を見つめた。

目を向けた先、木陰よりも数歩離れた場所。

SeeD服に身を包み、光の中に佇んでいたのは――――――今、一番に会いたいと願っていた人。




「スコール……?」

今日戻るなど一言も聞いていなかった。それどころか、いつ戻れるのかさえ知らなかった。
だからリノアはこんなにも驚いてしまうと、これが夢であるのか、または焦がれる想いが生み出した幻影なのではないかと確かめるような口調で彼の名を呼んでしまった。
たった今だ。……たった今、会いたいと願っていたその人がすぐ目の前に居る。まるで心の声を聞きつけ颯爽と現れたように、リノアの目の前には会いたかった人……スコールが居た。

スコールもそんなリノアの様子に気が付いたのか、困ったように眉をよせ、一見では分からない程度で笑うと、ゆっくりとした歩調で歩み寄る。一歩、また一歩とスコールが足を前に運ぶたびにSeeD服の胸元で揺れている装飾具が太陽の光を反射させ煌びやかな輝きを放つ。その眩しさにリノアは薄く目を細めるのだが、それでも未だに信じられない気持ちが心を充たしていた。目の前に居る彼が夢でも幻でもなく、実際にそこに存在するのだと信じる事ができない。それなのに……高鳴る鼓動は次第に大きく鳴り響き、その度に温かい何かが心の奥に染み渡って広がるのを感じる。

「……スコール」

どうして?そう続けたかった。
どうしてここに居るの?どうして今まで連絡をくれなかったの?どうして


――――――――今、こんなにも会いたかった気持ちがわかったの?


けれどリノアは唇をきゅっと引き結ぶとそのまま膝を抱えて俯いてしまう。本当ならばいつものように飛び付きお互いの存在を確かめ合いたかった。笑顔で彼に『おかえり』と言ってあげたかった。けれど瞳からは堪える事の出来なくなった様々な想いが溢れ出てしまい、リノアは言葉を口にする事も出来ずに抱えた膝に顔を埋めると、止まらない涙と、洩れそうになる嗚咽に必死で耐えていた。

「リノア」

スコールの低く落ち着いた声がすぐ傍で響き、彼が隣に腰を下ろすのを足下の芝生が知らせる。リノアの頭にそっと手が置かれると優しく頭を撫で、髪に触れる感触が伝わる。優しく愛しげに、いつもスコールは髪に触れる。
そしてふわりと暖かくて柔らかい感触がリノアの肩を包み込んだ。驚いたリノアは伏せていた顔を僅かに持ち上げて肩に目を向けると、そこに在る暖かさの理由に「あ……」と、口を開き、小さく声を洩らした。
ノースリーブから露になっていたリノアの肩。そこには、肩と腕が包み込まれるように真っ白なストールが掛けられていた。それは彼の部屋に置き忘れてしまったリノアが愛用する物であり、以前エルオーネからの贈り物だと、スコールから受け取った物だった。けれどリノアは知っていた。それが本当はエルオーネと共に選びスコールが買ってくれた物だと言う事を・・・…不器用な彼が恥ずかしさを隠す為に嘘をついて渡してくれた物だと言う事を……。

リノアは肩に指を這わせ、優しい温もりを伝えている雪のように純白な輝きを放つそれを見つめていた。
暖かい温もりは肩だけではなく、まるで心の奥にまで、その暖かさを伝えているような気がしてしまう。

いつだってそうだった……

体を気遣い掛けるその言葉も、不器用な嘘も、愛しげに髪に触れる仕草も・・・…闇から光へ導いてくれた、その手も。
それ等は全て、
スコールが与えてくれるリノアへの――――想いの欠片だった。



「……ずるいよ……!」

リノアは突然顔を上げるとスコールに振り返り、肩に掛けられた真っ白なストールを握り締めてそう言った。瞳からは相変らず止め処ない涙が溢れていたし、乱れてしまった呼吸に言葉は何度も詰まって途切れてしまいそうになる。けれど構わずリノアは続ける。

「スコールは……いつだって…そうなんだもん。私はスコールと対等で居たいのに、護られるだけじゃなくって護ってあげたいって思ってるのに……だけどいつもスコールは私よりもずっと先を歩いて、手の届かない所に居る。どれだけ頑張って追いつこうとしても、どんどん離れちゃう……それなのに、私が苦しい時や、もう駄目だって思った時に、何てことも無いように振り返って……手を差し伸べてくれる。そんなの……そんなのずるい……」

突然に激しく泣きじゃくり、思いの堰を切ったように感情を溢れ出させるリノアは、何も考える事が出来ずに言葉を続けていた。
こんな風に泣いている姿など彼に見せたくない、もしかしたらスコールに嫌われてしまうかもしれないと、普段なら思ったかもしれない。けれどそんな事はもうどうでも良かった。いや、それすら考える余裕が無かったのかもしれない。涙は止め処なく溢れている。哀しかった訳じゃなく、ただ……悔しかった。
スコールと共に未来へと続く道を進んで行きたい。互いが互いを必要として同じ分だけの想いを分かち合っていたいと、いつも思っていた。スコールは今も昔も変わらずに大きな愛を与えてくれる。もちろんリノアもそれに応えるつもりだった。スコールが与えてくれる想いの量だけ……それ以上の気持ちを彼に与えたいと思っていた。
けれどそのバランスが崩れてしまったのは……いつからか自分ばかりが彼に多くのものを与えられるようになってしまったと感じたのは、いつからだろう。

「…………リノアは、俺に護られるのが嫌なのか?」

リノアの瞳を真っ直ぐに見つめていたスコールは視線を空へと向けると、先程のリノアと同じように枝葉の木漏れ日に目を向けて静かに訊いた。スコールから発せられた言葉に厳しさや哀しみは漂ってはいない。けれどリノアは胸を突いた痛みに、慌てて首を横に振り否定を表した。

「違うよ、違う……けど……このままじゃ駄目になっちゃう……」
「何がだ……何が駄目になるんだ?」

見つめていた先を空からリノアへと戻し、スコールは涙に濡れたリノアの頬に指を這わせながらそこに張り付いている髪を丁寧に払う。リノアはその手に自分の手を重ね、スコールを見上げていた瞳をゆっくりと伏せた。

「スコールは私にたくさんの気持ちを与えてくれる……私が辛い時や苦しいと思ってる時に必ず助けてくれる……だけどそれだけじゃ駄目なんだよ……。私はスコールから与えられるばかりで、何もしてあげられてない……スコールの事を待ってるだけで、何も与えてあげられなくて……いつかきっとスコールは私を残したまま遠くに行っちゃうよ……」

リノアの瞳からは新たに生まれた涙が零れ落ちている。頬に流れる涙はスコールの手を伝い、指の間をじわりと濡らしている。

「リノア…………」
「スコールの足を引っ張りたくない……!いつか無くなる優しさなら欲しくない……私よりもずっと素敵な人はたくさん居るし、スコールの事をちゃんと支えてあげられる人だって、きっと――――えっ……?きゃっ!」

リノアは突然に悲鳴を上げると、両手を額に当てて俯き、強く瞼を閉じた。
手で覆っている額に微かな痛みを感じる。痛み……と言うには、余りにも弱い衝撃だったのだけれど、弾かれて当たった感覚が額の中心に今も残っているように感じる。
そっと顔を上げ、覗き込むようにスコールの顔を見つめると、スコールはリノアの顔元に近づけていた手を……つまり、丸めた中指をリノアの額に目掛けて弾いたその手を、今度はポンっと頭の上に乗せた。

「ずっと……そう思ってたのか?」

リノアの頭に乗せていた手を下ろすとスコールは背後の樹木に身体を預け、ほんの少しだけ見せた笑顔から、力を抜いたように息を吐き目を閉じた。木の葉の間をすり抜ける光が、彼の髪色を普段の灰色がかった茶からほんのりと黄金色に輝かせて見せている。

「もしそうなら………………リノア、それは間違いだ……」

背後に重心を預けたまま、うっすらと瞼を開き、何処か遠くを見つめているスコールは殆ど独り言にも近い物言いでそう呟いていた。

「支えられているのは…………多くのものを与えられているのは、俺も同じだ……」
「……スコール?」
「リノアと出会わなければ俺はずっとあのままだった。誰も信頼することが出来ずに…………独りで生きていたかも知れない。こうして誰かを想ことも、会いたいと焦がれることも…………泣き顔にどうすればいいか分からなくなる事も……
なかった筈だ……」

もたれ掛けていた身体を起こし、向けていた視線をリノアに戻したスコールは、口元に緩いカーブを浮べて困ったように眉を下げて笑った。
その顔が余りにも切なげで、心底困り果てたという顔をするから……
リノアの口元からはつい小さな笑い声が零れた。俯いたまま肩を揺らして笑うと、その度に幾つもの涙が落下する。泣くつもりなんてないのに、笑っていた筈なのに何故か瞳からは新たな涙が零れ落ちていた。
スコールは伸ばした腕でそっとリノアを引き寄せ包み込むように両腕の中に閉じ込めると、震える背をさすった。

「リノア、俺はリノアが居たから変われたんだ……リノアが……」

言葉を区切り、リノアを抱きしめたままスコールが空を見上げると、二人の間を心地よい風が吹き抜ける。さわさわと枝葉を揺らす風は、洩れる木漏れ日を、その光を、幾つもの欠片となって幻想的に輝かせる。

「リノアが与えてくれた想いの……想いの欠片に、俺は何度も救われた……」

スコールの背にまわるリノアの手が、言葉を返す代わりに強く力を込めて握られると、スコールもそれに応えるようにリノアを強く抱きしめた。

「だから……もうそんなふうに思うな」
「……うん」
「離れたりしないから」
「うん」

触れ合っていた身体を離し、お互いの顔を見つめ合うと、どちらとも無く笑いが零れ、二人はお互いの顔を見合わせたまま小さく笑った。どうして笑ってしまったのかは分からない。二人が浮べていた表情があまりにも苦しげに歪められていたからかもしれないし、分かち合うことの出来た互いの気持ちに心が満たされ、自然と浮かんだ笑みなのかもしれない。それは分からなかったが、二人は視線を合わせたまま笑顔を覗かせた。リノアの瞳にはまだ薄っすらと涙が浮かんでいたが、それが零れ落ちる事はもう無い。それだけで充分だった。

「スコール、ごめんね。突然だったからビックリしちゃったんだ。だって何の連絡も無かったし、それに……凄く会いたいって思ってた時だったから……」
「ああ……すまない。俺の方も急だったんだ。それに……あまり長くも居られないからな、少しでも時間を稼ぎたかった」
「……え?」

スコールはリノアの頬に手を滑らせながら、まるで眩しいものを見るように細めた目で見つめていた。

「また直ぐに戻らなければいけないんだ」
「……もどる?……戻るって、任務に?」
「ああ」

頬に触れていた手を離すと、リノアから視線を外し、真っ直ぐ前方に顔を向けたままで立ち上がったスコールが、木陰から離れた場所まで足を進めて頭上に広がる空を見上げた。
その表情はリノアを見つめていた時と同様に眩しく細められている。

「スコール?」

肩に掛かった純白を大切に手で押さえながらリノアも立ち上がり、スコールを呼び止めようと声を掛ける。空を見上げていたスコールは顔だけで振り返り、何かを思い出すようにもう一度空を見上げた。

「……リノアの顔が浮かんだんだ」
「私の顔?」
「ああ、……陽の光を見ていたら、暖かくて眩しい光に……リノアの顔が重なった」
「スコールもしかして……もしかしてそれだけで会いに……来てくれたの?」

言いながらも信じられない気持ちでいた。任務の合間を見てスコールはわざわざ会いに来てくれたと言うのだろうか?そんな事、ある筈ない。けれど、もしそれが本当だったら……忙しい合間を縫って会いに来てくれたのだとしたら、それは、どれだけ嬉しい事だろう。

スコールはリノアに向けていた視線を前方に戻すと背を向けたまま佇み、リノアは彼の背を黙ったまま見つめた。

「会いたかった……リノア、俺も同じだ……」

さっと、音を立てた風が吹き抜ける。
冷たい秋の風が……凛として冷たく、けれど包み込むように優しい風が吹きぬけ、リノアの頬を撫でて通り抜ける。

「……スコール…………私も同じだよ……私も凄く会いたかった!」

真っ白なストールを両手で握り締め、吹き抜ける風に負けぬよう、風に揺れて音をたてる枝葉に掻き消されぬように声を上げたリノアは、少しだけ溢れてしまいそうになった涙を拭いながら笑って伝えた。振り返ってリノアを見つめているスコールもリノアと同じように笑っている。『聞こえている』と、言葉で交わす代わりに、差し出した左手と共に、彼にしては珍しい微笑をその表情に浮べて。

降り注ぐ陽光はスコールのもとへ駆け寄るリノアを優しく包み込んでいた。暖かく、そして眩しい光を輝かせながら。

リノアがスコールの左手に右手を重ねると、肩を寄り添わせて顔を上げたリノアが陽だまりのような笑顔を向けた。

「これで一つになった、よね?」

微笑んで嬉しそうに言うリノアに、スコールは何の事だと眉を上げて見せて訊くが、リノアはそれに対して答えを言わずに一人満足げに笑うと、代わりにきゅっと、繋ぐ手に二回だけ僅かな力を込めてみた。

繋がれた二人の手。

互いに触れ合う事の出来る手、辛い時にそっと差し伸べる事の出来る手。

相手を想い、想われる、たくさんの……"想いの欠片"が込められた手を、一つに繋ぐように固く握られた二人の手を、
リノアは笑顔で見つめた。


暖かい陽射しの中を、冷たい風がそっと吹き流れる。

まるで肩を寄り添わせて歩むように。

2007/10/29 UP