失った色の世界






毎日のように繰り返される朝の通勤ラッシュ。
通勤や通学のために利用される列車は常に満員であるが、この時間帯に限り乗り継ぎの関係からか一時的に身動きを取れないほどの混み具合ではなくなる。
例えば開いた参考書に赤色フィルターを這わせて暗記作業を行うくらいは優に可能な状態となり、車内の到る場所で参考書を片手にした学生が何やらを呟く姿が目に入るようになる。
横に立ち並ぶ会社員らしきスーツ姿の男も、折り畳んだ新聞紙に目を走らせ、朝の限られた時間を無駄には出来まいと気忙に過ごしていようだった。
スコールは開いていた参考書を逆の手に持ち替えると、空いた手で吊革に掴まり、短く吐き出した溜息と共に目の前で流れ行く景色を眺めた。窓の外を流れる景色は今日も変わらず、慌しく現れては、あっという間に消えて行く。

景色――と呼ぶにはあまりにも呆気ない。そのあまりにも呆気ない風景を眺めて過ごす日々も、今年で三年目を迎える。

自宅から列車を乗り継いで三十分。その先にある高校へと通うのも今年で三年目。
スコール・レオンハートはこの春、高校三年へと進級した。
この三年間、毎日のように繰り返された日々は窓の外を流れる街並みのように次々と移っては一瞬で消え、何の面白み感じられないまま過去へと変わった。それはまるでモノクロの映像を観ているかのように単純な日々。景色も、この車内も、人々も。学校生活も、私生活も、全てが――――そのどれもが、色を失った世界のように、見えていた。

けれど、それでいいとスコールは思う。
色を失ったまま流れ過ぎて行けばいい。目に見える美しさ、喜び、感動、ぬくもり――そんなものは必要ない。
一人で生きる。そう決めた時から、すでに目に見えていた世界は色を失っていたのだから。

窓の外を流れて消える景色は相変わらず単調のままだ。
目に映ろうとも実際には見ようとしていない窓の外に目を向ける事ほどつまらないものは無い。仕方なくスコールは手元の参考書をもう一度開き、用紙いっぱいに並ぶ綴りに目を落とす。
その時だった。
「……やめて下さい」
蚊の羽音のように、か細く小さな声がスコールの耳に届く。

参考書から顔を上げて声のしたほうに目を向けてみると、スコールが立つ位置から少しだけ離れたドア付近、髪を三つ編みで一つに結った少女が今にも泣き出してしまいそうな表情で後方を振り返っていた。
少女は身じろぎするように身体を左右に数回よじらせると、もう一度後を振り返り、何かの意思を込めるように唇を噛み締め、真後ろに立つ中年の男を睨んでいた。
睨むと言っても、その表情はあまりにも弱々しい。鋭さや相手を威圧する力は少しも無く、睨むという言葉の効果が全くもって感じられない。むしろ逆効果で相手の感情を掻き立てるのではないかとさえ思えるような目付きを送っていた。
列車のドアと椅子の端に追い遣られたように立っている少女は、隅にある棒状の手摺を両手で強く握り締めると、もう一度何かを呟く。しかしその声は先程にも増す小さな響きで、誰の耳に届く様子も無く列車の音に掻き消される。
――いや、違う。ただ一人、少女の真後ろに立つ中年の男だけは、ねっとりとした淫猥な笑みを口の端に浮べると、野うさぎのように震えて脅える少女を見下すように見続けていた。
一目瞭然。
そこで何が起きているかを理解するまで大した時間を要することは無かった。

しかし、理解したからと言ってスコールがこの状況をどうにかしようと動き出す事も――――決して無かった。


例え追い詰められている三つ編み姿の少女が、自分の通う高校と同じ校章入りのブレザーを羽織っていようとも、小さく呟かれていた声が誰かに助けを求める訴えだと知っても、それが何だと言うのだろう。何の感情も湧き上がらない。助けようとも思わない。
他人と関わるつもりは無い。誰かのために何かをしようとは思わない。それは普段からスコールが常に思い続けていることだった。
第一、自身の身に起きている事柄を己の力で解決も出来ないで、この先どうやって生き抜いていくというのだろう。いつまでも他人に頼って生きて行くのだろうか?そんなの御免だ。
自分の身は自分で守る。他人とは関わりたくない。人間はいつだって一人で生きていくのだから……。

「……やめて下さい!」

先程よりも強くはっきりと、三つ編みの少女が声を上げ、意思を伝える。
勇気を振り絞ったのだろう。その声は微かに震えてはいたものの、相手の男が確実に聞き取れるほどの声量だった。男だけではない。今まで何が起きていたのか気付いていなかった周囲の者達も、今の少女の声を聞き取り、いっせいに振り返っていた。
車内にざわめきが走る。それは誰かが何かの言葉を交わして生まれたざわめきではなく、人の動き。何が起きたのかと状況を窺う人々の動きが車内のざわめきとなって広がっていた。
彼等は興味交じりに瞳を動かし、異変の臭いを、犬のように嗅ぎわける。そして車内の一角に生まれた異様な光景を目にすると、訝しげに眉を寄せて少女と男を交互に見遣った。
いっせいに向けられた人々の眼差しに三つ編みの少女は一瞬だけ肩を強張らせ戸惑った反応を見せたが、直ぐにほっとしたような安堵の表情を浮べる。”助かる“まるでそう顔に書いたような表情で周りを見つめ、無言の訴えを叫ぶ。
だが、その表情は、ものの数秒で硬く凍りつくこととなる。
振り返った大人たちは、そこで何が起きていたのかを理解したと同時に、まるで気まずい場面にでも遭遇してしまったように顔を顰めて白々しく目を逸らしてしまったからだ。
明からさまに迷惑だと舌を打つものも居れば、中には好奇な眼差しをぶつけて、少女がどうするのかを待っている者すら居る。
誰一人として、助けようと手を差し伸べる者は……

この場に居なかった。

少女の顔から、見る間に血の気が引いてゆくのがわかった。先程までの勇気を喪失したのか、または恥ずかしさと悲しみに耐えようとしているのか、顔を歪めた少女は身体を震わせたまま俯いてしまう。男が浮かべる口の端に浮かんだ笑みは、今も消えない。

スコールは手にしていた参考書を閉じると、隣で新聞紙を広げたまま突っ立っていた男を押しやり、扉のほうへと人を掻き分け、そして進む。

他人と関わり合うつもりはない。
その想いは今も変わらず残っている。
誰かのために行動を起こすつもりもない。
その想いも今も変わらない。
単に見て見ぬふりをする大人達と、自分が同じになってしまう事が許せなかっただけだ。
人々が浮かべた好奇の眼差しが、ただ気にいらなかっただけだ。
吐き気がする。
幼かった日に見たあの光景、向けられた眼差しが記憶の底から蘇る。
忘れようとしていたあの日の記憶が溢れ出す。
一人で生きようと誓ったあの日の記憶が、失ったはずのあの色が瞳の奥を染めようとする。
ただ壊したかっただけだ。
今のこの状況を、あの日の記憶を――――それだけだ。


狭い空間の僅かに出来た隙間へ身体を擦り抜けさせ、どうにか男の側まで辿り着くと、スコールは相手の肩を掴むために腕を伸ばす。
掴んでその後にどうするかは、その時になって決めればいい。そう思いながら勢いを付けて腕を真っ直ぐ前に伸ばす。
目の前に邪魔が入る。人を押し避け腕を伸ばす。あと少し――――届く。
しかし、一歩手前。それよりも逸早く男の肩へと別の手が伸びる。と、同時に車内に大きく声が響いた。

「やめなさいよ、嫌がってるじゃない!」

車内に高く響いた声、それは意外にも女のものであった。

「いい大人がなにやってるのよ、こんなことして恥ずかしくないわけ!」

恐れを一切感じさせずに男へ憤りをぶつけている女は艶やかな黒髪を揺らして、三つ編みの少女と男の間に立ちはだかるように割って入り込むと、上目に鋭く相手を睨みつけた。
先程のように弱々しいものではない。しっかりと相手を見据えた、強い眼差しだ。

スコールが腕を伸ばそうとした時、目の前を邪魔する人々や角度の関係で、同じように向かっている者が居るとは全く気付いていなかった。況してやそれが女だとは……誰が予測しただろうか。
車内には再び小さくどよめきが起き、今度こそ周囲から囁きが洩れ出す。
『……馬鹿だな』、『大丈夫なの?』、『ちょっと、誰か止めなさいよ』、『あれ、高校生だよな……』
飛び出して来た女の容姿を、はじめは後ろからしか確認することが出来なかった為にスコールも顔までは窺い知れなかった。だが、三つ編みの少女を庇うように間に割って入った事で真正面から伺えるようになり、そこにある顔が意外にも幼さの残るあどけないものであったことに、他者と同様にスコールもいくらかの驚きを覚えた。
はっきりとした年齢まではわからないが、紺色のブレザーに白いワイシャツ、胸元でしっかりと結ばれた赤いリボンと言ういでたちから、その少女がスコールと同じ学生であるという事は容易に理解できる。ただし、ブレザーの胸ポケットにデザインされた校章の違いから、その少女が他校の生徒であることを主張している。

「列車が止まったら警察に通報しますから」

少女が相手を強く睨みつけたままはっきりと言葉を紡ぐと、男の口の端からは、浮かんでいた笑みが消え去り、代わりに焦りの色が交わる。
「……なんだと」
警察という言葉に反応したのだろうか。男は目を剥き今にも飛び掛りそうな勢いで黒髪の少女を睨む。けれど少女が気圧される様子は依然としてない。

「当たり前でしょ、通報されて当然の事をあなたはしたんだから!」
「俺が何をした!」
男が息を荒げて叫ぶ。
「……何をしただなんて、よく平気でそんなことが言えるわね、あなたがしていた事はここにいる全員が知っているんだから!」
「うるさい!言い掛かりだ!」
「言い掛かりをつけてるのはどっちよ!」
「黙れガキが!大人に向かって生意気な口を利てんじゃねえ――――!」

一瞬の事だった。
逆上した男が怒りに任せて握った拳を天高く振り上げると、それを躊躇いも無く少女目掛けて一気に降下させる。
はっとしたように天井を見上げた少女は、次に来るだろう痛みを想定したのか、瞼を閉じて顔を横に背けると硬く唇を閉ざす。――――誰もが息を呑んでいた。

ドスッ、と車内に響いた鈍い音。
続いて伝わる重い痛み――――。


咄嗟の判断だった。
拳が振り下ろされようとした瞬間、スコールは手にしていた参考書を盾のように構えて持ち直すと、男の前に飛び出していた。
勢いよく殴り掛かろうとする拳は少女の顔面手前で参考書の中心を目掛けて落下し、衝撃を支えようと構えていたスコールの腕へ、鈍く響いた音と共に重い痛みをもたらした。
どうやら男は女相手に本気で殴り掛かるつもりだったらしい。スコールの腕に伝わった容赦無い衝撃がそれを無言で伝えている。

「なんだお前!」

唇をわななかせ憤怒に瞳を揺らしている男は、突然に起きた予想外の状況に一度はたじろいだものの、スコールの身なりや容姿を見渡して相手が学生だと知ると、一変してまるで馬鹿にでもするように唇の端を吊り上げて「……ガキ共めが!」と吐き捨てた。
この只ならぬ状況に、黙って目を逸らしていた大人たちもさすがに危機感を覚えたのか車内は騒然とざわつき始めた。列車内に流れる到着を告げるアナウンスに混じり、後方にまで渡って先程までには無かった騒がしさの呟きが、波紋のように広がっている。
男の表情もそれに合わせて見るうちに焦りと怒りが渦巻いてゆく。

「どいつも、こいつも……なめやがって!」

再び拳が力を持って振り上がる。
スコールはそれを冷静に見つめた。
先程受けた打撃から相手の威力とスピードは把握している。隙をついて押さえ込めれば――――

「はやく、こっちに来て!」

相手の先制に備えてスコールが足を踏み込もうとした時、不意に左腕を掴まれた。
同時に重々しい音を立てて列車の扉が開き、雪崩が起きたように人々が車外へと溢れ出る。その流れに巻き込まれるようにスコールも腕を引かれたまま人々の渦に押し出された。
列車が駅に着いたのだと気付き、振り返って後ろを確認してみるが男の姿はもうどこにも見当たらない。
前方に向き直り足を止めようとする。だが、腕を引く力は未だに緩まない。いったい誰が腕を引いているのか確かめようと、掴んでいる腕を辿って人混みに目を凝らすと、黒く艶やかな髪が人々の間で揺れているのが見えた。
少し先で腕を引いたまま走る少女は、今もあの男が追って来ているとでも思っているのか、スコールの腕を掴む力を、決して緩めようとはしない。

「……おい!」

声を掛けるが、それすら届いていないのだろか、少女は振り返ろうとはしなかった。


そのままどれだけの距離を走ったのだろう。
改札を無理に突破し、駅から離れ、見た事も無い公園まで辿り着いた時だった。
「……止まりましょう!」と、か細い女の声が上がる。
始めこそ気付いていなかったが、スコールと同様に腕を引かれたまま走っていたらしい、あの三つ編み少女の声だった。彼女が上げた悲鳴とも似た呼び掛けで、前方を走っていた黒髪の少女は、はっとしたように気付いて足を止め、ようやく三人は立ち止まる事が出来た。

「疲れたぁ!」

スコール以外の女二人はいっせいに声を上げると、足下の砂を気にもせず、へたり込むように公園の砂地に座り込む。
その様子を伺いながらスコールも走り疲れて乱れた呼吸を整え、額にじんわりと浮かんだ汗を片手で拭いながら、念の為にと振り返って誰も追ってきていない事を確認する。
これだけ走ったのだ、懸念するまでも無く追って来る者は、誰一人として居ない。

「あのう……」

砂が擦れた音に混じって後ろから声が掛かる。
スコールが振り返ると、黒髪の少女が膝の辺りについた砂を両手で払いながら立ち上がり、どこか恥ずかしむように笑顔を覗かせていた。

「お礼が遅くなっちゃったけど、さっきは助けてくれてありがとう!」

そう言って少女は握手を求めるように右手を差し出すが、黙ったまま何の反応を見せようとしないスコールを不思議に思ったのか、その瞳を自分の掌へと向けて砂でも残っているのかと睨むように確かめる。そして何かを思い出したように顔を輝かせると、微笑んだ瞳をゆっくりとスコールに向けた。


「私はリノア、リノア・ハーティリー」


『ねえ、きみのなまえは?』


黒髪の少女――――リノアは、光の中から舞い落ちた羽根のように柔らかく、淡い色みをおびた陽射しのように暖かく、

そっと微笑んでスコールを見つめた。


それがリノアとスコールの運命的な出逢いになると気付くのは――――まだずっと先のこと。

2008/1/20 UP