1.

仕事を自室に持ち帰り、深夜遅くまでパソコンに向かうのが日常の習慣となっていた。

仕事は仕事、プライベートはプライベートと区別する事が出来れば良いのだが、SeeDとなって一年近を迎えようとしている今、抱える仕事は膨大な件数へと膨れ上がり、プライベートの時間を楽しんでいる余裕など、ある筈も無い。
おまけに司令官などという役職に回されてしまった為に、余計な仕事までもが舞い込む有り様だ。こちらに関しては割り切って考えられるようにはなったが、今日のように優先すべき事がある時などには、煩わしさを感じずにはいられなかった。
デスクの上に広がる報告書に一通り目を通し終わり、確認のサインを入れてから束ねる。それを学園長に提出するファイルと共に一つに纏め、専用のボックスケースに収納する。この工程を終えて、やっと一日の業務が終了する。
というのが日々の流れだった。

「お仕事は終わった?」

椅子の背もたれに重心を預け、小さく溜息を洩らした所でリノアに声を掛けられた。

「ああ、一通り」

そう答えた後に「……いや、まだ残っていた」と、後ろに振り返って言い直す。
リノアは不思議そうに首を傾げると軽く微笑み、わかった。と言って手元の本に視線を戻した。

リノアはベッドの上で壁に寄り掛かって腰を掛け、先程から熱心に何かの本を読んでいた。本の表面には鮮やかな空色のカバーが掛けられており、本のタイトルを知ることは出来そうにない。普段から読書が好きな彼女は、毎日のように図書室へと通い、気に入った本を数冊借りてくる。そして今のように仕事が終わるまでの持て余した時間を、読書に費やしていた。
以前、リノアに先に眠るよう言ったことが有った。仕事の量はその日によっても違い、当然、夜遅くまで掛かってしまうこともある。それまでの時間を、何も彼女が無理して付き合う必要はない。だからそう言ったのだが。

『時間を共有したいんだよ』

そう言って突き出した人差し指をこちらへ指し向けたリノアは、「それに」と、言葉を続けた。

『それに、スコールは一度何かを始めたら、全部終わるまで止めないでしょ?きっと眠るのも忘れて続けちゃうでしょ?だから見張ってるの、スコールがちゃんと眠るように私が見張ってるんだよ?』

思わず笑ってしまった。
まさかリノアがそんな風に考えているとは思っていなかったし、眠い目を擦りながら必死に起きていた理由が、その為だったのかと知ると、込み上げた愛おしさに、自然と笑みが零れてしまった。

それ以来、ある程度の時間を目安に、持ち込んだ仕事を切り上げるようにした。
見張られていては仕事に集中しにくいと言った理由もあったが、何より自分の為に、彼女に無理をさせてしまう事の方が気に掛かってしまったからだ。
恐らく、あの時のリノアはこれら全てを見通していたのだろうと思う。
おかげで以前と比べて睡眠時間は歴然と増えたし、それなりに規則正しい生活を送れるようにもなっていた。
それはまさに、リノアのおかげだと言っても過言は無かった。

「これだけ片付けたら、切り上げる」

熱心に本を読み続けるリノアにそう告げると、「うん、わかった」と、視線を上げずに返事が返る。
どうやら、よほど本に集中しているらしい。目を輝かせ、時折、深く息を吐き出しながら、文字に視線を這わすリノアは、すっかり本の世界の住人と化してしまったらしい。確かシリーズ物の恋愛小説で、気に入った物を見つけたと言っていたはずだ。

体をデスクに戻し、パソコンの電源を立ち上げる。
起動時の羽音を低くしたような音が小さく室内に鳴り響いて、やがて画面が光を放つ。
キーボードに数回パスワードを打ち込んで、目的の場所へと接続する。
SeeD専用のデータベース。そこから自分を除くSeeD達のスケジュール表をそれぞれ呼びだした。
この作業も、最近では自分の中での一つの決まり事のようになっていた。

月に一度だけ。
リノアがエスタへ定期健診を受ける、その一週間前に必ず行う作業。

「ねー、スコール」

突然に呼ばれて振り返ると、先程までベッドの上に腰を掛けて、熱心に本を読み耽っていたリノアが、すぐ横に立っていた。
「なんだ?」と訊き返しながら片手をマウスへ伸ばして画面上に開いたままのブラウザーを閉じる。

「あのね、お仕事はまだ終わらないのかな?と思って」

横目にパソコンの画面を確認するリノアは、両手を後ろに組んで首を横に傾げた。
「ああ、そうだな。もう終わるが……眠いのか?眠いなら先に休んでいても」
「ううん!違うの!」
リノアは左手を前に出すと、胸の辺りで左右に揺らして否定する。
「……どうしたんだ?」
「うん。眠いんじゃなくて、あのね、今日の分のお仕事はもう終わってるのかな~って、気になって」
「今日の分の仕事?……ああ、それならもう片付いてはいるが……」
何故、そんな事を訊くんだ?と、訊き返そうとした所で、リノアが小さく「よし!」と声を上げた。
後ろに回していた右手を前に戻すと、コホン。と、咳払いをする。

訳が分からず、出掛かった言葉が喉元で引っ掛かっていると、次の瞬間。
その余りにも意外で予想すら出来なかった光景に、言葉は一瞬で失われてしまった。

リノアの掌から輝く物が滑り出され、それは高く持ち上げられた。
これは現実か?と疑いたくなった。
全くもって理解が出来ない。何故それが今ここにあって、しかもリノアが手にしているのか。
目にする事など、もう無いと思っていたそれが、今、ここにあるのか。
出来れば二度と目にしたくなかった。


左右に揺れる銀色の――――――懐中時計。


催眠術を行うための道具。
それが今、自分の目の前で揺れていた。


あれは確か、半年近くも前のことだ。あの時も同じ懐中時計を目にした。
忘れもしない。そう、信頼の証だ。
催眠術を行う上で、術者と被験者は互いの信頼関係が絶対であり、故に暗示が成功すれば互いの信頼が築けている。つまりは信頼の証になると、誰かが言っていた筈だ。

けれど何故リノアが。
……いや、偶然だろう。あれは半年も前の事だ。きっと、催眠術の特集でも取り上げていて、それをたまたま見たリノアが興味を抱いて試したくなったに違いない。それ以外に考えられない。
呆気に取られたまま見上げると、リノアの唇がゆっくり開かれようとしている所だった。

「これからスコールに催眠術を掛けます」

リノアは真顔になって、まるで暗記したマニュアルを口にするかのように言う。

「この時計を見つめ、肩の力をゆっくりと抜いて下さい」

その様子が余りにも真剣で、それでいて、瞳の奥に強い期待を込めるような輝きを覗かせるものだから。

「そう、リラックスして」

少しぐらいなら付き合っても良いだろうと、思ってしまった。

催眠術と信頼の証に関連性が有るなどとは無論、思っていない。SeeDである自分が、リノアの暗示に掛かるとも思えなかったし、この手に関する対処法は一通り心得ているつもりだ。つまり結果は始めから分かっていた。ただ、それでも付き合おうと思ったのは、こうしてゆっくりとした時間をリノアと共有するのも悪くないと思ったから。

「あなたは……だんだん眠くなります」

忙しくなり過ぎてしまった最近は、互いに顔を合わせる事すら難しかった。会話も最低限の内容のみで、ろくに出来ていなかったように思う。だからなのか語りかけるリノアの言葉や声がとても心地よく感じられ、そっと耳を傾けたくなった。
暖かい陽の光に包まれるような心地よさに、いつまでもそこに留まっていたい安らぎを感じる。二年前、リノアと出会う前の自分であれば決して知ることのなかった、人の温もり。
その温かさにこのまま身を委ね、何も考えずに川の流れに沿うように、深い海に沈みこむように、リノアに全てを預けて……重くなる瞼を……このまま閉じてしまえば

瞼が……重い…………?

意識が急激に浮き上る。
目の前の景色が鮮明に飛び込み、不確かな空間を彷徨っていたような感覚が、記憶の断片となって頭の中に住み着いていた事を知る。
一分……いや一時間?すっぽりと抜け落ちたように、時間の感覚が薄くなっていた。

「スコール?」

呼ばれて顔を上げると、両手に時計を握り締めているリノアと目が合った。

「ねー…もしかして、眠くなった?」
「え?…………」
「スコールの目が、とろ~んとしてたように見えたんだけどな~……やっぱり効かない、よね?」
「あ……ああ、そうだな……」

取り繕うように頷くと、リノアは肩を竦めて、「な~んだ。残念」と落胆した声を出す。
その言葉で、意識を失ったのが数秒間だったという事が分かった。そして、彼女に気付かれた様子がない事も。
心なしかほっとしてしまう。けれど、次にリノアが発した言葉に、絶句せざるを得なかった。

「そうだよね、スコールはSeeDだもんね。SeeDは暗示に掛かったりしないよね」

リノアの言う通りだった。

SeeDである自分は、心理攻撃の防衛として暗示に対する訓練を受けていた。実際に任務でこのような場面に遭遇したこともあったが、暗示に掛かってしまうような事など一度もなかった。
自分の技能に抜かりが有ったとは思い難かった。 けれど、リノアの催眠術に掛かってしまったのは紛れもない事実で、僅かな時間と言えども、意識を失ったのは確かだった。

リノアは掌の時計を見つめ、長く垂れているチェーンを指に絡ませて持て遊んでいる。

もし、もし仮に催眠術と信頼に大きな繋がりが有ったとして、それが信頼の証であるのだとしたら……
相手がリノアだったから暗示に掛かってしまったとでも言うのだろうか?
酷く馬鹿げた考えのように思えた。けれど、心の隅では完全にそれを否定することが出来ない自分が居た。

「信頼……証」

見つめる先のリノアがこちらに振り向いて、まるで声を掛けられるのを待っていたように輝いた瞳を向けている。

「リノア……」

「えっ?……な、何?」

突然に声を掛けたからなのか、もしくは急に椅子から立ち上がったのに驚いたのか、リノアは一瞬たじろぐと僅かに顔を高揚させて見上げた。

「それ、貸してくれ」

馬鹿げた考えだ。わかっている。
それでも試してみたいと思ってしまった。

リノアの、信頼の証を。