2.

艶やかな黒髪を指先で軽く梳き、穏やかに上下している肩にシーツを引き上げてやる。

ベッドの脇に腰を下ろし、深い溜息を吐き出した。
リノアは呆気なく暗示に掛かってしまい、今、穏やかな寝息を立てながら眠っている。

この状況と信頼の証に繋がりが有るとは、やはり思い難かったのだが、それでも心の奥から染み出るように湧き上がる感情は全てを否定することを拒んでいるようにも思えた。

横を向き、ベッドに横になって眠るリノアへと視線を向ける。
リノアは眠りながらも、その唇に緩やかな弧を描いており、今にも声を出して笑い出しそうな微笑みを覗かせている。どこか満足気で、充たされているような、そんな表情だった。

ベッドから立ち上がると、デスクの上に置かれたままの懐中時計を手に取り、その表面を見つめた。表面には何かの紋章と似たデザインが施されており、その為、これが以前も目にした事のある物と同一であるとわかった。けれど、そうなると何故リノアが、この時計を持っていたのかという疑念はより一層深くなるばかりだった。
だが眠ってしまった彼女に今更、問い質す訳にもいかず、仕方なくデスクに戻すと、懐中時計はチャリ、と金属の擦れ合う音を、小さく響かせた。

以前、この懐中時計を目にした時、あの場に居たのは誰であっただろうか?
疑問は、また新たに生じる。
仮にこの時計が以前に見ていた物と同じであるとすれば、その背景には手渡した人物が必ず居る筈だ。

振り返る。
リノアは相変わらず穏やかな寝息を立てている。その唇には柔らかい弧を描いたまま。
心地よい夢の中に浸っていると言うよりは、どちらかと言えば現実において喜びを得た時に見せる、あの満面の笑みに近いように見えた。
何故そのような表情を浮かべているのか不思議に感じながらも、見飽きない寝顔をしばらく見つめ、いくらか経った後にリノアの枕元に、空色のカバーの掛けられた本が、無造作に置かれたままになっていたことに気がついた。
眠りの妨げにならぬよう退けてやろうと、足を踏み出そうとした時。

ふと、思うことがあった。

リノアは毎日のように本を読んでいた。恋愛小説であったり、ミステリーの類であったり。時には何かの専門書的な本を開いている事などもあった。
無類の読書好きなのか、リノアはジャンルを問わず様々な本に手を伸ばしているようであった。 それらを把握することが出来ていたのは、なにも彼女に読んでいる本のタイトルを訊いていた訳ではなく、実際に広げられている本の、その表紙を目にすることで、自ずと把握することが出来ていた。

つまり、リノアは読んでいる本にカバーを掛けていた事など過去に一度も無かった。

そう言うことになる。

違和感。
とは少し違うかもしれないが、妙な感覚に囚われた。
何かを知らせる引っ掛かりのようなものが、頭の隅でサインを激しく鳴らしている。まるで巧妙な罠に掛かってしまったような、全てが偶然の上で成り立っていたとは思えないような、そんな疑いが沸々と生じていた。

デスクの上の懐中時計をもう一度、見遣り、次にベッドの脇へと移動する。
リノアが目を覚まさないよう注意を払いながら枕元に手を伸ばして、置かれたままになっている、空色のカバーに包まれた本を手に取った。
手にした本の、その鮮やかな空色をもう一度眺める。
ゆっくりと表面に手を伸ばすと僅かに頁を開き、まるで空を切り裂くかのようにカバーを捲る。


その先に潜む、真実を知るために。


だが、真実とは大概、こうあって欲しくないという願いが結果として待ち受けている場合は多い。


「やられた……」


その一言に限る。まさにそんな状況だった。

空の向こうに見えた真実は、やはり望まざる現実であり、目の前に現れた『それ』は、懐中時計と同様、以前に一度、目にしていたものだった。
本の表紙には、催眠術を手引きする内容であることを示すタイトルが大きく記されており、そのタイトルに確かな見覚えがあった。それは以前、あの懐中時計を用いて暗示が行なわれた場所で、誰かが手にしていたものと同一の本であった。
そして気になるのは、表紙とカバーの間に挟まれていた、一枚のメモ用紙。

その用紙の冒頭には丸みを帯びた文字で、まず、「リノアへ」と綴られていた。




リノアへ
今日はと~っても良い物を持ってきたで!
この前、はんちょに、どう思われてるのかを知りたいって、リノア言ってたやろ?
色々と考えてみたんやけど、これを使って試してみるのはどうかな~?って思ったんや!
実はコレ催眠術の道具なんやけど、催眠術って掛ける側と、掛けられる側に大きな信頼があってこそ成り立つらしいんよ。つまり!暗示が成功した者同士は、その大きな信頼で結ばれてるってことになるんや!
その名も「信頼の証」どう?おもしろそうやろ?
でも、はんちょの場合、そう簡単に暗示に掛かるとは思えへん。
そこで考えました!もし逆に、はんちょがリノアに暗示を掛けようとしたら……ってことを!
実はこの「信頼の証」については、はんちょも知ってるんよ。だからきっとリノアが試したら、はんちょも試したくなるんじゃないかな?って思うんや!もしこの作戦通りに行ったとしたら、はんちょもリノアの信頼の証を欲しがってる!ってことやろ?
まー、こんなに旨く行くとは限らへんけど、ちょっとした遊び感覚で試してみるのには良いかな?と思って!
ちなみに!!このことは、くれぐれもはんちょにばれへんように頼むで!!!
あ!それから!旨くいったら報告よろしくな~~!




文面はそこで終わっていた。一通り読み終えたと同時にメモ用紙が掌の中で、クシャリと乾いた音を立てて潰れた。いや、潰したと言った方が正しい。

後悔とも、憤りとも似つかない複雑な感情が、体の中を駆け巡るような感覚に襲われる。
今思えば、あの時リノアが熱心に本を読み耽っていたのも、やたらと期待を込めるような眼差しを向けていたのも、全ての背景には、この用紙に記されていた事柄が関わっていたことになる。

リノアは全てを見通していた。つまりは、そう言う事だ。

裏切られたような気持ちは決して無い。
ただそれよりも、余りにも浅はかだった自分の行動と、それを見透かされていたであろう、その状況に情けない気持ちが湧き上がっていた。
だが……。

振り返って見たリノアは、相変わらず満足気な微笑を浮かべている。


もし、この笑顔の理由が、望むべき結果を得た為に生まれたものだとしたら――――。


それはそれで良いのかもしれない。と、そう思ってしまった。


本からカバーを完全に剥がし取り、デスクの前に戻ってサイドチェストの上段を引き出す。

リノアの事は良いとしても、この計画の主犯者にはそれ相応の礼でもしてやるかと、密かに目論みを立てながら手にしていた本と懐中時計を、引き出しの奥にそっと押し込み、いや、それよりもまずは、明日リノアが目を覚ました時にどのような顔をして会うべきなのか、そちらを考える方が先決かも知れないと思い直す。

それにしても……
深い溜息が一つ吐き出される。

信頼の証、その"証"を互いに立てようとしていたとは……。よくよく考えてみると、酷く馬鹿らしく、笑えるような駆け引きを試そうとしていたように感じられた。
互いの気持ちを知りながらそれでも証を求めたのは、単に相手に対する独占欲の一種だったのかもしれない。
けれど、リノアに不安を抱かせていたのも、また事実なのだろう。

明日リノアが目覚めたら、ゆっくり話し合おうと強く決意する。
これから先に、今回のように馬鹿げた証を求め合うことが無いように。そしてこれ以上の不安をリノアに抱かせることが無いように。

その時、まるで考えを見透かしたかのように、眠っているリノアが小さく声を洩らして笑った。
満足気でどこか充たされているような、そんな表情を浮かべてリノアは眠っている。

その笑顔を見つめていると、やはり今回はこれで良かったのかもしれないと、そう思えてしまう。

もしかしたらリノアは、これら全のことを最初から見通していたのかもしれない。

今になって、そう思えた。

2007/8/5 UP