
11.カードキー
ガーデン寮の一室。
あまりに殺風景で「生活感」などと言う言葉と無縁のこの部屋は、必要最低限の物だけが取り揃えられ、その他の家具であるとか装飾品などといった、彩を加える調度品は一切、省かれていた。下手をすれば、必要な物さえも省いてしまっている可能性だって考えられる。趣味や好みなど見当を付けることすら出来ず、それよりも本当にここで生活している者が居るのだろうかという、疑いさえ抱いてしまうほどだった。だが、ここの住人に関して言えば、この無駄のなさこそが、その性格を語っているとも言えた。
入り口から左の壁に沿って配置されたシングルベッド。その上に、所有者以外の者が横になっている。シーツの上には艶やかな黒髪が無造作に広がっていた。
両手両足を思い切り広げてみる。心地よい開放感。これが寝起きのまどろみの中でなら、より開放的で心地よい気分を味わえるかもしれないと思う。けれど睡眠を取るにはまだ余りにも早過ぎる時間であり、一日はこれからだと言わんばかりに、頭上の大きな窓から陽光が差し込んでいる。その眩しさに目を細めつつも、頭の中ではどうでもいいように感じていた。
天上を見上げ零れたのは小さな溜息、もう数時間も前から同じ事を繰り返している。
こんな風にダラダラと時間を過ごすのはあまり好きではないし、いい加減に体を起こさなければと分かっている。頭では理解しているのに、体が言う事を利いてくれない。
寝返りをうって体を横に向けると、開いていた窓から一枚の花びらが風に乗って舞い込み、そして床に落ちた。可愛らしいピンク色の花びらは何故かこの部屋には不自然に感じてしまい、その理由が此処の住人とは不釣合いだからだと分かると、知らず頬を緩めていた。けれど、それも長続きはしない。
頭の中は、ここには居ない彼の事でいっぱいだった。
「スコール……会いたいよ……」
たった今、風に舞い上がった花びらのように、リノアは小さなその声を、風に乗せるよう零していた。
毎日をこの部屋で過ごしている訳ではなかった。もちろん彼がガーデンに居る間はこの部屋で過ごしているのだけれど、彼が不在の場合には、個人用として設けられた自室で過ごすようにしていた。
でも時々、どうしても寂しさに心が支配されてしいまい不安で不安で仕方がなくなってしまう時がある。
そんな時、気が付けばこの部屋に来ていた。
ここに来ても彼に会える訳ではない。けれど、微かに残っている彼の"存在"が安心をくれる気がするから……。
ある時、彼は部屋のカードキーを差し出した。好きな時にいつでも部屋に来て良いと言う言葉と共に。
その言葉が意味することに驚くと同時に、表現出来ない程の喜びが心を充たすのがわかった。
何と答えて良いのかも分からず、それでもこの気持ちをどうにか伝えたくて思いっきり抱きついて、そっと顔を上げて見た彼の、少し困ったように笑っていた顔。今でもよく覚えている。
それはスコールからの、初めてのプレゼント。
それだけで充分すぎる程嬉しい。それなのに欲張りな心は気持ちに不安をチラつかせる。
本当は無理をしているだけではないだろうか……。
彼は他人との関わりを極端に嫌う性質の持ち主であったし、だからこそ一人の時間を過ごせるこの部屋は、彼にとって貴重な場所だったはず。
もしかしたら、寂しいと口に出してしまった自分の為に、彼は仕方なくカードキーを手渡してくれた可能性だって考えられる。けれどそんな考えに、彼は首を横に振った。
「待っていてほしい。遠く離れている時が有ったとしても必ずここに戻るから、その時はここに居てほしいんだ」
そう言った彼は、眉根を寄せ、うっすらと赤くなった顔を隠していた。
あの日からだった。
彼の帰る時は必ずこの部屋で彼を待ち、そして『お帰り』を言うようになった。
カードキー、彼が帰って来る時と、少しだけ淋しくなってしまった時、そっと持ち出して握り締める。
今でも忘れる事が出来ない……本当に嬉しかった。スコールの気持ちを聞けた事も、こんなに愛しい人が居て、その人と想いあう事が出来て。
この気持ちはどれだけ湧いても、たとえ溢れ出してしまっても、消えてしまうことなんて決してない。
次から次へと生まれる大好きの……宝物のような、愛し過ぎて切ない気持ち……
スコール、スコールに出逢えて良かった。
「あれ?」
いつの間にか目の淵から熱いものが零れていた。驚いてベッドから体を起こすと、それは自分の膝やシーツを濡らす。
悲しい訳じゃなかった。確かにスコールに会えなくて淋しい気持ちは有ったけど、この涙はそれ等のせいではない。今、流れ落ちている涙は、愛しすぎる気持ちが心の中でいっぱいになり、留められなくなった想いが外にまで溢れてしまったから。
そう気が付くと、形となった気持ちが次から次へと止まる事無く零れ落ちた。
止められない涙を嬉しさの笑いと共に流す。
人は悲しくて涙を流すだけじゃないんだ。嬉しくて、幸せ過ぎて流す涙もあるんだ。
そう気付かされた。
それは愛しい人の存在によって優しく教える。
「スコール……ありがとう……大好きだよっ……」
この気持ちを伝えたい。けれど此処に居ない彼に、せめて気持ちだけでも届いて欲しいと願いを込めてそう言うと、リノアは枕に顔をうずめて泣いた。
気持ちを、溢れ出てしまったこの気持ちを好きなだけ溢れさせて、そしてまた新しく心の中に溜める事が出来るように……。
そのまま、どのくらいの時を過ごしていたのだろうか、何時の間にか眠ってしまったリノアは部屋に響くノックの音で目を覚ました。
外はまだ昼の輝く光を振り撒いているらしく、差し込む陽光が室内を明るくしていた。泣き疲れてしまい、いつの間にか眠っていたらしい。眠りに付いた時刻などの記憶がはっきりしないことから、どうやら熟睡していたらしいけれど、時間は差ほど経ってはいないようだ。と、窓から漏れる太陽の光で判断をする。
覚醒しきらない、ぼうっとした頭のままベッドに上半身を起こすと同時に、もう一度、室内にノックの音が響いた。
リノアは驚くと慌てて立ち上がり、寝起きのふら付いた足取りで、それでも転ぶ事はなく、扉の前に立ち開閉ボタンを押した。
シュッと勢いの良い音で開いた扉の先には、よく見知った友人の……少し驚いた表情があった。
「やっぱり。ここに居たのね?」
「……キスティス……どうしたの?」
ここがスコールの部屋だという事も忘れてリノアは訊き返す。
乱れた髪に、眠そうな声に、眩しそうに細める目。キスティスは分かりすぎるほどにリノアが今、寝起きなのだという事を窺い知る事が出来てしまい溜息を洩らした。
そしてもう一つ、普段と異なる箇所にキスティスは気が付いていた。
薄っすらと赤みを帯びた瞳。リノアの目が少しだけ赤く染まっている。けれど、その理由は訊かずとも察しがついていた。
キスティスは溜息交じりに小さく微笑むと突然、まるで何かを思い付いたように方眉を持ち上げ、そして驚いた表情を作って見せた。
「リノア!あなた何してたのよ?一日以上も顔見せないから心配したじゃない!」
「……え?……一日?」
リノアは、起き抜けの鈍った頭で必死にキスティスの言葉を反芻して考える。
一日会ってないって……確かキスティスとは今朝、廊下ですれ違った筈だし……スコールの部屋に来てからもそんなに時間は経ってない。
少し寝ちゃったけど外は明るかったし…………。
そこまで考えてリノアは、はっとする。外が明るいからと言って、何もそれが同じ日だとは限らないのではないだろうか。もしかしたらあのまま眠っていて、夜を跨いだ次の日になっている可能性も考えられる。
リノアは驚いた表情でキスティスを見ると口を開いた。
「キスティス!今日は何日!?」
飛び掛りそうな勢いで聞いたリノアは、先程までの眠気が吹き飛んだように訊いてくる。その様子を見てキスティスは口元に手を当て小さく笑った。
キスティスの浮べる表情を理解することが出来ないリノアは、困惑を浮かべるしか出来ないで居た。
「ごめんなさい。嘘よ、リノアったら見るからに寝起きだったから……つい、からかいたくなちゃったのよっ」
「え…………えーっ!?嘘なのー?もう、キスティスの意地悪―!」
ぷうっと頬を膨らましたリノアにキスティスは笑いながらもう一度ごめんなさいと誤り、先程から小脇に抱えていた、さほど大きくない包みを逆の手に持ち替えた。
「でもあなたを探していたのは本当よ。最初はリノアの部屋へ行ってみたけれど、リノアったら居ないから……念の為にと思ってスコールの部屋に来てみたのよ……でもねぇ……」
キスティスの発する言葉の語尾に、妖しい音色を感じた。彼女の表情はその声色の通りに妖しく艶かしい笑顔を覗かせている。
以前にスコールが、キスティス、セルフィ、アーヴァインに、自分との関係に対して揶揄されると言っていた事が有ったけれど、この事だったのか。と、身を持って思い知り、リノアは頬を赤らめて俯いた。
だが巡らしていた考えもキスティスの言葉一つによって掻き消され、リノアは勢い良く顔を上げる。
彼女は今、何と言ったのだろう。再度訊き返すリノアに、キスティスは優しく微笑む。
キスティスは言った。
―――スコールが帰って来ると。