
17.決意
早朝の朝靄を輝かせる淡い光が空から射し落ちると、白く霞んでいた目の前の景色も徐々に本来の姿をとりもどした。
ここへ来てから一番の晴天。陽の昇り始めた空は雲ひとつない青、一色だった。
「おぉー!すっげぇいい天気だな!!」
ゼルは歓喜の声を上げると青い空を見上げながら両腕を高く突き上げ、深く空気を吸い込み村の外へと走って飛び出した。バラムへ戻れる嬉しさなのだろう。ゼルは喜びを露に青い空を見上げたまま、幼い子供のように走り抜けている。そのゼルの姿を後方で見送ったスコールは歩きながら後を追う。スコールはゼルのように表立った感情を表すことは決してないが、だからと言って気持ちが全くわからない訳ではない。帰れる。いつの頃からか、そう思う度に喜びと似た感情が、自然と沸き起こるようになっていた。
今、この村に残っている者はスコール、ゼル、運転手の三人だけであった。他の調査員はトラビア軍部より派遣された部隊であった為、迎えの必要もなく一足先に山を下ると各々で帰路へと着いた。残されたスコールとゼルは初めてこの地へやって来た時と同様に、用意された車輛で船の寄港場所まで送り届けてもらう手筈になっており、その為、他の調査班より遅れてこの場所を去ろうとしている。
六日前、この土地に足を踏み入れたあの日に車内から見た白い世界。あの景色が遠い日の記憶として蘇る。たった六日という短い期間にも関わらず、蘇った記憶はすでに曖昧さを帯びていた。だが数時間後には同じ車輛から同じ景色を目にすることとなる。再びあの景色を目にすれば、曖昧だった記憶はその曖昧さを失い鮮明さを帯びるのだろう。記憶を遡るように、当時に遡るように、繰り返し行われた行動によって蘇るのだろう。
陽射しを受けて煌いた輝きを放つ足下の雪を見つめながらスコールが歩みを進めていると、数歩後ろで鳴っていた筈の足音が、雪の軋む音と共に突然止まり、気付いたスコールも歩みを止めて振り返る。
振り返った先には残された村がある。住人を失い本来の役割を失った村と呼ばれていた場所。空虚だけをいつまでも残存させたその場所に……彼は佇んでいた。
村の入り口前でこちらに背を向けて佇む運転手の男は、村の中へとただ静かに視線をそそいでいた。
彼の立つ両脇には松明立てが置かれている。ここへ来た当初、赤く揺らめいた光を放って闇と化した村を浮かび上がらせていた炎も、今は灯っておらず、北方から音を立てて吹いた風に、今、雪は混ざっていない。
目に見える全てのものは、いつだってその景色を変化させてしまう。初めてこの地に足を踏み入れてから様々なものが、僅かながらも形を変え、その色を変えた。
だが、変わらない……変えられなかった色がある。
スコールは村の入り口に佇む男を、それよりも更に奥へと視線を這わせて向ける。
壁に染み付いた跡。赤黒い濁色。それだけは、その色を、その姿を――――変える事が出来なかった。
「行くぞ」
佇んだままの男にスコールは声を掛ける。だが、男は返事を返さず振り向こうともしない。距離は離れていない、聞こえていない訳でもなかった。
彼は……振り返ろうとしなかった。
遠目に様子を伺っていたゼルは一向に足を向けない二人に異変を感じたのか、傍まで駆け寄ると「何かあったのか?」とスコールの横顔に声を掛けた。けれどスコールからの返答は無く、村の前で佇む男を無言で見つめ続けている。返事が返らないと分かるとゼルは不思議そうに首を傾げて、スコールと同じように沈黙を纏ったままの男に視線を移した。
村の奥に視線を向けて佇む男の姿はどこか普通とは違う様子を生み出しているように見えていた。何処がと問われ、はっきりとした答えを述べられる理由があった訳ではなかったが、そこに不安を抱かせる要素があると直感的に感じ取ってしまった。ゼルは眉をひそめながらもう一度スコールに視線を戻して声を掛ける。けれど、やはりスコールは前方の男を見続けているだけで何も言おうとはしない。
沈黙から生まれる不安は、まるで水面に波紋の波を作るように広がり、心を重く支配するようで、その圧し掛かる重圧に耐え切れないとばかりにゼルはもう一度スコールと運転手の二人を交互に見遣り、運転手に視線を定めると一歩前に出る。
「どうしんだよ?行かないのか?」
戸惑いながら言ったゼルの声に、今まで背を向けて黙ったまま村の奥を見続けていた男が、足元にゆっくりと孤を描きながら振り返る。
彼の足下に積もった残雪は、陽の光を受けて銀色の輝きを放っていた。
「……………ここに…残ろうと思います…」
突然発せられた言葉と共に、空気がざわめくよう辺りに風が吹く。
「…………なに言ってるんだよ……こんな場所に居たって仕方ないだろ?……それに、感染者だって出ちまったんだ、いつまでもこんな場所に留まる訳にはいかない、いつ感染するかだってわからないんだぞ!」
困惑した表情を浮べながらも、何とか考えを改めさせようと手を動かし全身で説得しようとするゼルの努力も空しく、男はゆるゆると首を横に振って否定の意思を表す。
「ここに残りたいんです」
「それに……」と続けた男は突然に自身の右手を胸の高さの辺りで前に差し出すと、閉ざしていた拳を二人に見せるようにゆっくりと広げる。
その瞬間、二人は息を飲んだ。
ゼルは言葉を失ったまま目の前の現実を驚愕の眼差しで見つめ続け、スコールは僅かに目を見開くと掌から男の顔へと瞬時に視線を移し、伏せられている彼の瞳を黙って見つめた。
広げられた右の掌に見えた"それ"に、二人は見覚えがあったからだ。
忘れる筈がない。
色素沈着を起こし、黒ずんだ痣。
男の掌を半分以上も覆って拡がっている痣は、セスの体に現れていたものとまったく同じだった。
「いつ、感染した」
「……夕べ、あなたと話をする前からです。私はセスを葬るために彼を海まで連れて行きました。……ですが、それよりも以前に感染していたと思います……恐らくあの日、セスが姿を消した日です。あの時セスは何かに怯え、震えていた。私は何とかしてセスを落ち着かせようと思い彼の手に触れました。いつ感染症したのかを考えると、あの時以外には思い当たらないのです」
スコールの"感染"という言葉に、男は自身の事であるにも拘らず淡々と語った。彼は焦燥の念に駆られることもなく冷静に状況を判断しているようであった。それはけして自暴自棄になっている訳でも、投げ遣りな態度を取っている訳でもない。
「この病は遅かれ早かれその命を確実に奪います。だったら、この地に残りたい」
言った後、彼は考えを改めるように首を左右に数回振る。
「たとえ感染していなかったとしても、私は同じ事をあなた方に言ったと思います。ですが……残りの命が少ないとわかる今、私の願いは一つだけなんです」
物腰の柔らかさは失わず、けれど強い意思を覗かせる口調で言い切る彼をスコールは表情を変えることなく見つめていた。
彼が冷静でいられる理由。それはただ一つだったから。
「それがあんたの選んだ答えなのか?」
「私は自分の信じる道を進みます……この場所で、この地で最後の時を迎えます。そこに後悔などありません」
冷静でいられる理由。彼には決意があった。
己の恐怖をもこえる断固たる決意が。
痣の拡がった掌を強く握り締め、しっかりと頷いた男のその意思を聞き遂げたスコールは、黙って背を向ける。
横で立ち尽くしたまま呆然としていたゼルの肩に軽く手を乗せると言った。
「……行こう」
助ける事が出来たかもしれない、助かる方法はあったのかもしれない。この場から無理やりにでも連れ出し、助かる糸口を見つけることが出来れば、彼が命を失うことは無いのかもしれない。けれど、もし見つける事が出来なければ……彼はまた後悔をその胸に抱くのだろうか。
彼が望むのであれば、もうこれ以上に何も言う事は出来ないのだとスコールは感じていた。
それは、救う力が無く、認めることしか出来ない自分への言い訳だったのかもしれない。けれど、この土地に計り知れないほどの執念を胸に抱き続け、叶わなかった願いを追い求めていた男が、この地で最後の時を迎えたいと言うのなら……それが彼の選ぶ答えだと言うのなら、そうさせてやりたかった。
これ以上に後悔を残すことだけはして欲しくはなかったから。
「スコール!!!!」
ゼルは悲痛にも似た叫びで名を呼ぶと、振り返りもせずに歩き出したスコールの腕をひっ掴んで引き止めた。
「何言ってんだよ!!このまま置いて行くって言うのか!?」
「ああ」
「ああってお前!!本気で言ってるのか!?こんな所に一人で残せる訳ないだろ!?」
「あいつが望んだ事だ」
「望んだ事って!…だからって置いて行くのかよ!そんなの、そんなの見捨てるのと一緒じゃねぇかよっ!!」
ゼルはスコールに掴みかかり必死に説き伏せようとしたが、スコールはゼルからの視線を外す。
それが答えだと言わんばかりに、肯定の意を表すように、ゼルからその目を逸らした。
スコールが、どのような想いでこの場を立ち去ろうとしているのか、どうして何も言わず去ろうとするのか、その理由をゼルは知らない。ゼルからしてみればスコールの行動はただ相手を見捨てているようにしか見えず、冷静な態度は諦めてしまったからなのだと判断せざるを得なかった。何でだよ!!ゼルは思う。何で助けない?感染してるから?助からないから?だから見捨てるのかよ!
スコールの服を掴む拳に更なる力を込め、僅かに震えている腕に力を込めてゼルは握る。
俺達、ここに来て何が出来た?何も出来なかった…助けられなかった!!村人もセスも……
「…………何とかできないのか!?見捨てるような事なんてできねぇよ!助けられるかもしれないだろ!俺達はSeeDだろ!?」
震える体は悔しさからだった。SeeDでありながら何も出来ず、誰も助ける事の出来ない現実とその悔しさ。
目の前の、救える命すらどうにも出来ない現実と自分。
スコールは一つの溜息を付く。
「……どうやって助けると言うんだ?あいつは感染者だ。何処に連れて行く、あんたはガーデンに連れて行くとでも言うのか?それが何を意味するか、考えなくてもわかるだろ」
スコールは一度そこで言葉を区切り、一呼吸置くとゼルを見た。
その瞳は冷たかった。
一切の感情が消えてしまったかのように冷たい。
「俺達にあいつを助けてやることは出来ない。方法も知らない。残された時間をあいつが望むように過ごしたいと言うのなら、そうさせてやりたいだけだ。何の力もない俺たちが、無責任にあいつの望みを奪う権利などない」
ゼルの手から力が抜けた。掴んでいた腕からは情けないほどに力が抜け切ってしまい、爪の先がスコールのジャケットを微かに掠る音を鳴らしながら、その手は真下へと垂れ下がってしまった。
失せた力と対象的に湧き上がったのは怒りの感情。それに伴う震えだった。
「なんだよそれ……権利ってなんだよ……。おまえ、そんな簡単に諦めるのかよ!そんなふうに見捨てるヤツなのかよ……!」
彼は感染者だ。触れただけで感染してしまう病に侵された彼を、いったい何処へ連れて行くかなんてわからない。ガーデンに?そんなことできない。感染者である彼をガーデンに連れて帰るということは、仲間達に危険が及ぶも同然。
――なら、どこに?
スコールの言った言葉をゼルは何度も頭の中で反芻させる。
病を治す術を知らず、死と隣り合わせの彼を、どこでどうやって助けられる?――わからない。
彼が苦しんでも、ただ見つめる事しかできないであろう自分に、いったい何が出来る?――わからない。
それでも俺は、やっぱり助けてやりたいよ。権利とかそんなんじゃなくて…助かる見込みが無いからって何もしないのはイヤだ。
ゼルは俯き佇んだ。
足下の雪をぼんやりと見つめると、目の前の雪のように頭の中が真っ白になり、何も言えなくなってしまう。
言いたい事が無いわけではない。言ってやりたいことは山ほどあった。けれど、怒りが込み上げるほど何も言えなくなる。
胸の奥がズキズキと痛み出し、何を言ったらいいのかがわからなくなる。悲しかった。悔しかった。スコールの言っている事はけして間違ってはいない。無力すぎる今の自分達に出来ることなんて何も無い。
それでも、スコールは何とかしてくれると思った。諦めず助けると言ってくれると思った。だって、彼はいつだってそうだった。自分が駄目だと思ってしまった時でも、彼だけは違う。たとえどんな状況であろうと、スコールはそれを難なくこなしてしまう。それだけの力がある奴だった。いつだって憧れていた。対等で在りたいと思いながらも憧れを抱かずには居られない存在だった。
だから悲しかった。スコールの諦めてしまったその態度が、ものすごく悔しかった――――。
「ゼル、SeeDなら出来る事と出来ない事を見極めろ。あんたが何とかしたい気持ちはわかった。だが、それは綺麗事だ。理想論にすぎない。俺たちがやるべきことは他にある。…………それに……」
突然に降りかかった声は、何かの意を決したように呼吸を飲み込むと、刃物のような鋭い空気を思わせゼルに向けられる。
「自分でどうにもできないことを、俺に求めるのはもうやめろ。いつまでも俺に頼ってばかりいるな……」
ゼルはハッとして上気させた顔を上げた。恥ずかしさと悔しさの入り混じったような感情がカッと熱く全身を駆け巡る。
スコールは今……何て、言った?
ああ、そっか。
俺は口では助けたいと言いながら結局スコールに頼ろうとしてたんだ。自分では何も出来ないくせに、それなのにアイツを見捨てることは認められなくて。……きれいごとを言って……。
情けない……すげぇ情けない……。
スコール。…………オレ、ずっとお前にそう思われてたのか?
ゼルの思考は完全にとまった。
ゼルの瞳から逃れるように背を向けたスコールは唇を噛み締める。
スコールを見つめていた瞳は深い悲しみに覆われてしまい、そこにはもう何も映ってはいなかった。
スコールにはわかっていた。全てを仕方ないと割り切ろうと理由付けている自分の方が誰よりも綺麗事を述べているということも、今の言葉がどれだけゼルを傷つけるかも。
「ゼルさん、いいんです。私は自分の意志でここに残りたいんですから。たとえ感染していなかったとしても、同じ事をあなた方に言った筈です。どちらにしても、私はこの道を選んでいた。ですから……行って下さい」
ゼルの背後で男の穏やかな声が告げた。けれど、今の彼が声と同じように穏やかな表情であるのかは、わからない。
見ることができない。顔を上げて彼と目を合わせることが出来なかった。ゼルは振り返ることも出来ずに力なく下へ垂れていた拳に震えるほどの力を込めて握っていた。
スコールは歩き出す。振り返ることも、もう何かを語ることもなく、ゼルと同じように拳に力を込めると誰にも悟られず唇を噛み締めたまま足を踏み出す。
ゼルは遠ざかる背中を見つめた。
悔しい。悲しくて、苦しい。
様々な感情が駆け巡る。でも、何もできない。もう、どうする事も出来ない。
それでも目を逸らしてはいけないと思った。逸らす事だけはしたくなかった。たとえ苦しくても悔しくても。ちゃんと認めなければいけない。
それが――――それが、せめてもの償い。今の俺には……それしか出来ない。
ゼルは男に振り返り、振り返ったゼルに……彼は微笑んだ。
「ゼルさんも行って下さい。あなた達は何も気にする事はない。私は何の後悔も無いのですから。あなた達に会えた事を嬉しく思っています…………スコールさんに感謝していると、礼を伝えて下さい」
振り返り見た彼の顔は、声と同じにあまりにも優しくて、穏やかで――――
「……ごめん……ごめんなっ」
ゼルは堪えきれず歪がめてしまった顔を伏せ。消え入りそうな声で何度もそう言った。
空はこんなにも青く晴れ渡っていたのに、足元の雪はポツポツと音を立て融けていた。
――――俺たちは何もできなかった――――
やがてゼルもスコールの後を追う。
悲しみと悔しさを胸に抱え、無力さを思い知って。
村の入り口には、いつまでも、いつまでも深く頭を下げた男の姿があった。